こんにちは、井口事務所カーライフ+編集担当の小林です。
本記事では、
・世界初の電気自動車である、たま電気自動車について |
お伝え出来ればと思います。
電気自動車の歴史は古いです。
19世紀の初めから試作や実用化の取り組みが行われていました。
しかし、一般的な普及には至らず、内燃機関を搭載するガソリン車が主流でした。
そんな中、日産からは世界初の量産電気自動車が販売されているのです。
第二次世界大戦当時の自動車産業や終戦時の状況なども踏まえて、どのような背景で生み出されたのかを知りましょう。
※ここから先、ショッキングな画像を使用致します。ご容赦ください。
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第二次世界大戦時の自動車産業について
第二次世界大戦から終戦までの間、日本の自動車産業は戦争の影響を受け、大きな変革を経験しました。
まずは戦時中の状況から確認してみる事にしましょう。
軍需生産への転換
第二次世界大戦勃発後、日本の自動車メーカーは戦争機械や軍用車両の製造に転換しました。
軍需産業の一環として、乗用車や商用車の生産は制限され、代わりに軍用トラックや軍用車両の生産が中心となりました。
戦争のために戦略的な物資や兵員の輸送が必要であったため、民間向けの乗用車や商用車の生産は制限されたのです。
資源の制限と不足
軍需生産への転換は資源の制限と不足が深刻だったという問題がありました。
戦争のためには鉄やゴム、燃料などの重要な資源が必要であり、それらの供給が制約されました。
自動車の生産にはこれらの資源が必要であったため、戦争の影響で生産が困難になりました。
鉄は戦争において重要な資源でした。
戦争時には兵器や戦車、軍艦、航空機などの製造に大量の鉄が必要とされました。
鉄は耐久性や強度が高く、兵器や戦闘車両の製造に不可欠な素材だったのです。
鉄は戦略的な輸送手段である鉄道の建設や維持にも必要でした。
ゴムも戦争において重要な資源でした。
ゴムは当然、タイヤの材料として使用され、戦車や軍用トラック、航空機などの車両に必要な部品でした。
また、ゴムは防水性や絶縁性に優れており、電線やコネクタ、ガスマスクなどの軍需品の製造にも使用されました。
終戦時の自動車産業について
続いて、終戦時の自動車産業についても確認しておきましょう。
生産の再開と復興
戦争終結後、自動車メーカーは工場の再建と生産の再開に取り組みました。
一部の工場は戦災や資源不足のため被害を受けていたため、修復や再建が必要でした。
また、戦時中に軍需生産に転換した工場を民需生産に再転換する必要がありました。
当時の主なメーカーはトヨタ自動車、日産自動車、本田技研工業(現ホンダ)です。
資源の不足と制約
戦後の日本は資源の不足と制約に直面しました。
戦争による資源の消耗や占領下での経済制約により、原材料や燃料の調達が困難でした。
終戦直後の日本では、ガソリンの供給が非常に困難でした。
第二次世界大戦中、日本は戦争のために多くの資源を消費し、燃料やその他の物資の不足が深刻化していました。
終戦後も、連合国軍の占領下で日本は資源や燃料の制限を受け、ガソリン不足が続きました。
このため、終戦直後のガソリンは非常に貴重なものとなり、一般の市民にはほとんど供給されませんでした。
ガソリンの配給は主に軍(連合軍)や重要な公共機関、警察、消防などの特定の組織に限られていました。
終戦後の交通手段としては、ガソリン車の代わりに自転車や徒歩が一般的でした。
終戦後しばらくしてから、ガソリンの供給は徐々に回復し始めましたが、依然として制限があり、ガソリンの不足は続きました。
この状況は復興期を通じて続き、1960年代になるまで安定する事はありませんでした。
そんな状況で唯一供給過剰となっていたのが電気だったのです。
工場の被災と再建
戦争中の空襲により、自動車メーカーの工場は被害を受け、一部は完全に破壊されました。
終戦後、工場の再建と復興が行われましたが、資源や設備の不足により、生産再開までに時間がかかりました。
一方、発電所(当時は水力発電所が主流)は山間部にあり戦災を免れていました。
まだ家電製品も普及しておらず、民需もわずかなものでした。
たま電気自動車の開発
こうした戦後直後の石油不足などの事象を経て、立川飛行機は電気自動車を開発します。
立川飛行機とはどんな会社?
立川飛行機は「隼」などを生み出した企業です。
終戦後は施設の多くを米軍によって接収されジュラルミン制の食器、ロッカー、テーブルなどを作って米軍に納入していました。
やがて米軍からは軍用ジープや乗用車などの自動車の修理が発注されるようになり、それらが主力となりました。
一方でオオタを作っていた高速機関工業の下請けにもなりました。
飛行機の材料を利用してオオタのボディー制作をしながら、米軍の自動車修理を研究材料とし自動車の研究を始めていたのです。
1961年2月には社名をプリンス自動車工業に変更しました。
1960年代半ばになると外国から市場開放により通産省主導のもとに自動車業界再編開始。
1966年にプリンス自動車工業は日産に吸収合併されることになり、プリンスの名は消えることになります。
たま電気自動車の概要
先述したように、当時の日本は、GHQ の軍需物資統制で深刻な石油不足の一方、水力発電による電力は相対的に余力がありました。
このため国もEV の製造を奨励した結果、市場には新興メーカーのEV が多数存在しました。
この中で、「たま」は政府主催の第1 回性能試験でカタログ値を上回る航続距離96km・最高速度35km/h のトップ成績で注目を集めます。
1951年頃まではタクシー需要で重宝される事になりました。
「たま」の名は工場のあった多摩地区が由来で、「たま」の文字を図案化したロゴがホイールキャップに入ります。
車体開発は、立川飛行機の下請け会社であった高速機関工業からノウハウを受け継いでいます。
モーターやコントローラーは日立から、バッテリーは湯浅(現ジーエス・ユアサ)から調達しています。
バッテリーは2つに分けられ、フロアの両側に収納されています。
ケースにはローラーが付けられており、充電済みのバッテリーと素早く交換できるように工夫されていました。
東京地区の標準現金価格では、350,000円と言われています。
たま電気自動車のスペック
この項目では、たま電気自動車の外部、内部に関して表を使って詳しく説明していきます。
型式/重量
スタイル | セダン |
ドア数 | 2ドア |
乗員 | 4名 |
車両重量 | 1,050kg |
車体/寸法
構造 | 木骨スチール |
バンパ- | スチール |
ステップ | あり |
全長 | 3,200mm(バンパー共) |
全幅 | 1,270mm |
全高 | 1,650mm |
車体 / 車軸 / 操縦 / 付属
フレーム | 梯子型 |
前軸 | 逆エリオット型 |
後軸 | セミフローティング式 |
軸距 | 2,000mm |
ステアリング | ウォームアンドローラー式 |
機関/寸法/出力
気化器 | なし |
最高出力/回転数 | 4.5PS |
特徴 | 電動機:36ボルト、120アンペア 蓄電池:40ボルト、162アンペア |
※¹ ハイブリッドシステム形式:なし
※² 変速機:2速
電気自動車たまについて日産自動車が公式ページを作成しておりますので、こちらをご確認ください。
たま電気自動車の衰退
たま電気自動車はその後、派生型の開発も行われる事になりました。
1950年の朝鮮戦争勃発の煽りを受けてバッテリーの主要な原材料である鉛が高騰しました。
加えて同時期には電気自動車の開発を選択した最大の理由であったガソリンの供給状況が改善へ向かいます。
これらの理由から、1950年から1951年頃に全ての電気自動車の製造を終了する事となりました。
まとめ
・たま電気自動車とは、立川飛行機(現在は日産が合併で吸収)が製造した電気自動車
・カタログスペックを上回る性能で注目され、タクシー業などで利用された ・朝鮮戦争の関係で、鉛の高騰やガソリンの供給安定が起き、製造を終了する事となった |
当車種以後、日本での電気自動車販売は長く途絶えていました。
しかし、21世紀に入って自動車各社で電気自動車の開発販売が本格化すると、このたま電気自動車は再注目されるようになります。
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